拝啓 谷崎潤一郎先生

日常の中の小さな気付きを

大事に思うことと大事にすることの違い

大事に思うこと(=仮に愛情とする)と大事にすること(=仮に愛することとする)とは違う。

 

誰か相手に愛情を抱いていたからといって相手を大事にしてるかは別である。

愛情が器に入った水だとして、大事に思う相手がポットの中の植物だとして、水は器から管を通ってポットに流れつかなければ植物は枯れてしまう。

ちゃんと管がポットの方向(内)に入っていて、始めて植物は水を得られる。

これを勘違いしてる人がいて、水さえあれば植物は満足するんだろう?的に考えているというか、錯覚している人がいる。

しかも水(愛情)が多い人に限って「こんなに水(愛情)があるんだから植物(相手)は満足してるはず」と思い込む人の多さ。

 

植物(相手)が潤ってはじめて、植物は愛されてると感じる。いくら器の中の水があっても管がポットの外を流れているようなら植物は枯れてしまう。

植物(相手)側から管がズレていて水が来てませんよ〜と言うことも多々あるのだが、水(愛情)が多い人に限って「こんなに水(愛情)をやってるのに何を言ってるのか!」と聞く耳を持たない人も多い。

 

管とは相手が大切にされて喜ぶ方法・大事にされていると感じることである。

それは植物のポットによって違うので、どうすれば?じゃなく、植物(相手)への接し方など植物(相手)の反応を見ながら、もしくは相手に聞きながら(相手が望んでいるのであればの話だが)水を送らねばならない。

 

これは男女の恋愛関係においてだけ言っているのではなく、家族・親子関係でもそうである。

文体から見えるもの

小説やエッセイを読んでいる時に、私には内容の他に文体から浮かんでくるイメージ(絵のような)のようなものが見える。それは小説などの内容が頭に描写されるというのではなく、その小説家や筆者の持つ何かしらの性質・特性や記憶(経験?)といったものと結びついているようだと最近分かるようになった。

 

初めて私が谷崎潤一郎の小説を読んだのは「鍵」からであった。それまで谷崎のスキャンダラスな部分が好きではなく、避けていたのだが、私の趣味の1つである短歌の短歌賞の三度目の挑戦に落ちた後、何かしら導かれるように私に必要なものが谷崎にあるような気がして、また推理系が好きなのもあって「鍵」を初めて読んだ。

最初はなんだこの変態小説は……と思いながら読み進めていくと、途中ある部分で『あっ!』となる瞬間があった。

それはスポーツや音楽におけるゾーン体験にも似たような感覚で、この感覚を体験するために私はこれを読んだのだと思った。

恐れ多くも文豪である谷崎潤一郎とであるが一瞬谷崎とリンクしたかのような、パソコンとスマホでいう同期したかのような感覚であった。

そしてとても満たされた感覚なのである。

 

話を戻すが、それ以後は谷崎の「鍵」の文体に”江戸切子ガラス”が浮かぶようになった。なんという美しいイメージであろうかと思った。これが谷崎が文豪と呼ばれる所以なのかと。

その後、「陰翳礼讃」、その他同じ文庫本にあった随想に魅了されてしまった。

 

これが私と谷崎先生の出会いである。