大事に思うこと(=仮に愛情とする)と大事にすること(=仮に愛することとする)とは違う。
誰か相手に愛情を抱いていたからといって相手を大事にしてるかは別である。
愛情が器に入った水だとして、大事に思う相手がポットの中の植物だとして、水は器から管を通ってポットに流れつかなければ植物は枯れてしまう。
ちゃんと管がポットの方向(内)に入っていて、始めて植物は水を得られる。
これを勘違いしてる人がいて、水さえあれば植物は満足するんだろう?的に考えているというか、錯覚している人がいる。
しかも水(愛情)が多い人に限って「こんなに水(愛情)があるんだから植物(相手)は満足してるはず」と思い込む人の多さ。
植物(相手)が潤ってはじめて、植物は愛されてると感じる。いくら器の中の水があっても管がポットの外を流れているようなら植物は枯れてしまう。
植物(相手)側から管がズレていて水が来てませんよ〜と言うことも多々あるのだが、水(愛情)が多い人に限って「こんなに水(愛情)をやってるのに何を言ってるのか!」と聞く耳を持たない人も多い。
管とは相手が大切にされて喜ぶ方法・大事にされていると感じることである。
それは植物のポットによって違うので、どうすれば?じゃなく、植物(相手)への接し方など植物(相手)の反応を見ながら、もしくは相手に聞きながら(相手が望んでいるのであればの話だが)水を送らねばならない。
これは男女の恋愛関係においてだけ言っているのではなく、家族・親子関係でもそうである。